真夏の金華山DWラン(10.34k)、円原川往復(72.33k)、森永卓郎氏「書いてはいけない」その他読了

テストチップの実動評価は継続中で一部不具合の原因はなかなか判明しない。担当範囲の外側の事象ということがぼんやりわかってきて気分的には多少緩和されて来たもののスッキリしない毎日が続く。週末もPCを開けて解析のシミュレーションを走らせる。梅雨まだ明けぬ今年、雲が切れて晴れた時は異常に暑い。
7月6日(土)時間的余裕がないので短時間で高負荷がかけられる金華山DWのrunを実に半年ぶりにやると湿気で蒸し暑く出る汗の量が半端ではない。帰りの清水川を渡たる時に今年の初セミ、恐らくアブラゼミの鳴き声が聞こえる。シャワーの後の体重計測で一気に3kg減量、まずまずの成果。逆に脱水症状気味でその日はすぐに喉が渇き水分をとり続ける。それにしても早朝の金華山DWはランナー多い。

10.34km 1:39:55 9:40/km 獲得156m

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翌7月7日は七夕。13時前に散髪のために柳ケ瀬に行くと向かいの高島屋広場が異常な混雑になっている。高島屋サヨナライベントの一環で美川憲一のショーを見に来た人らしい。もう終わり間際の「柳ケ瀬ブルース」の歌が流れる大混雑とドサクサの中で偶然昔の会社の人に遭遇、老境近いオッサン同士二人が手を取り合って退社以来10年間、「オ~お元気そうじゃないですかぁ」とお互いの生存を称えあう。散髪の後はもう一つの目的、御座候の買い貯め作戦のために高島屋の売り場に行くと異常なほど長い列ができていてとても買えないと諦める。
7月13日(土)3連休初日、rideで岐阜の北、美山方面にある円原川伏流水の里を目指す。ここは15年前くらいに一度行って以来。朝5:37にスタート。伊自良方面にルートをとり平井坂峠に左折する。平井坂を問題なく超えて美山にダウンヒル。谷合の信号を直進し細い山峡道を武芸川の支流にあたる神崎川に沿って上流に登っていく。ここの川面もエメラルド色、実に美しいがルート上に負担の大きい激坂は無い。予算の関係か、路面の舗装は穴ボコがあって良くないのでリム打ちパンクには要注意。やがて神崎の集落に入り「伏流水へは行けません」の看板を見て止まる。以前通行止めを無視して突っ切った挙句に崖を歩いたこともあるのでここは安全を期して引き返す。帰り、ロードバイクに次々すれ違い意外と人気コースだと知る。キャンプ場近くの路上にひっくり返ったカブトムシを見つけたので拾い上げて木に返してやる。その後は、はじかみ林道の峠越えして9:30に帰着。

72.33km 3:31:41 20.5k/h 45.6k/max 獲得666m

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神崎川

(はじかみ林道ピーク)

7月14日(日)3連休に娘が帰って来た。中日の今日は月待茶屋で昼食の後、高島屋の最後のバーゲンに行く。ずいぶん安くなっているようで普段はユニクロの私には珍しくデパートで服を2着、自転車rideで使う財布がボロボロなので財布を購入。娘と奥さんの買い物は長いので茶店で一服するも最後の賑わいで混雑している。テナントに入っている店のいくつかは岐阜市内に移るらしく御座候も来年3月に岐阜駅に入ると聞く。次の日、普段は運転をしない娘の練習を兼ねて「みずまんじゅう」を食べに大垣の金蝶園に娘の運転で行く。混んでいたが20分程待って「水まんじゅう」をいただく。外見くずもちに似ているが冷えた流水から取り出して即、食べるところがいかにも涼しい感じがする。お茶セットで500円程度、種類も増えていてマンゴー味もあった。その次の日、娘は在宅勤務をしてから夕方帰東する。月末から出張などがあり盆は帰って来ない予定。娘も息子も一旦帰って来てまた出て行く。集合住宅の狭いとは言え残された部屋の熱量の低下と広がる寂寥感は年のせいか心に年々厳しくなっている。
「母港として子らは帰り来 つかのまの家の熱量また冷めはじめ」
「子らが来て去りゆく後の虚しさに年々深く長く落ちこむ」

(水まんじゅうイートイン版)

7月21日(日)森永卓郎氏「書いてはいけない」その他、読了。過日「ザイム真理教」を読んで「ふーむ、しかしそれはどうか?」と思うところもあったが読み物として面白かったので続編みたいな「書いてはいけない」も借りようとすると気が遠くなる待数なので、実物購入。ハッキリ言って自分にはこちらの方が大いにインパクトがあり「読んではいけない」ものだったか・・。「書いてはいけない」とは今までメディアが積極的に無視して取り上げなかったタブーにあたるもので、それは権力に対する自己保身と忖度であり営業継続のための自主的情報統制からきている。題材としてジャニーズ問題、ザイム真理教、日航123便の3つが挙げられている。特に3番目に関しては1985年当時、自身が大学生だったこともあって良くは知らず初めて知るこで驚きが多くあった。参照に出てくる青山氏の本も数冊を併せて読むと、確かに科学的で至極合理的な説明になっていると思われる。事実ならば、その一瞬に人生を止められた520人の御霊の無念さは推して知るべし。ニュースや新聞が何を伝えて何を伝えてないか?日常でも不思議に思うことがよくある。本当に流している情報が視聴者側の利益なのか?発送者側の意図か?もっと他に大事なことはないか。受信料というコストまで払わされている放送局なら尚更とも思う。森永氏はこのテーマを大手出版全てに断られたそうで、ある意味「三五館シンシャ」は今のなかで得難い出版社かも知れない。

「知らざればそれでよかつた 否それは考える自由も無き世」