眼科と奈良まち、金華山DWrun(9.13km)、森永卓郎氏まんが読了

如月、今年の節分は2月2日。帰省していた娘にせっかくなので豆を撒いてもらいその次の日に娘は帰東する。業務はなんとか区切りが近づき一段落をつけて2月7日を迎える。この冬最も厳しい寒波におおわれたこの日、付き添いの奥さんと奈良の眼科に向かう。関ヶ原から滋賀県内にかけて白銀の世界になったが優秀なるJRはスケジュール通り運行。4か月前に予約した眼科の硝子体手術のため大和西大寺に向かう。10時過ぎに病院に入り手術と入院の説明を受ける。午後に入って消毒の点眼に続き瞳孔の点眼も打って順番を待つ。呼び出され番号札を付け歩いて手術室に向かう。目の手術は麻酔は効いていても見えるだけに怖い。ベッドが倒れ顔が覆われ目は開いたままで固定される。緑と赤い光の見えるマニピュレーターのような器具の先端にある白い光源がまぶしく目に接近して来たあと更にチクリと麻酔が打たれその後は真っ暗になる。目の中で何かゴソゴソ動いているらしいが分からない。時に緊張し脈拍が速く血圧が高くなるアラームが鳴ることもあったが随分長く感じた後に「終わりました」の声で少々汗ばんでいることに気づく。眼帯を付けられ歩いて病室のベッドまで戻ってようやく落ち着く。付き添い用ベッドは無いので入院の私を残して奥さんが奈良のホテルに向かった後で先生が来られ「手術は無事成功しました」と告げられた。外は寒そうな夕暮れで雪が流れている。翌朝は薄っすらと雪が積もって、遠く雪で白くなった若草山が見える。朝食前に眼帯が外され出血で真っ赤な目でも外の風景が見えたので安心する。朝には院長回診があり多くの先生が一同に会された中で診察を受ける。奥さんが10時過ぎに来て診療代を払って帰路に着く。

「「よくやつた、もう一息」とひとりごと酷使に耐えてままならぬ眼に」

「放心し精気ををなくし横たわる術後のふとん温かさのみ」

JR東海道線柏原付近)

(奥の若草山に雪残る)

見えると言ってもハッキリ見えず不自由には変わりない。感染防止のため次の診察までは洗顔も風呂もダメ、寝る時はギッターという保護ゴーグルをして眠るので夏だと暑くて大変だったろうと思う。3日後に再び診察のため奈良を往復する。術後の経過は順調とのことだが目の焦点が左右で違っていて違和感は正直大きい。光がまぶしく保護のためにサングラスをする。トボトボとではあるが普通に歩くことはできるので奥さんが是非行ってみたいという奈良まちの猿沢豆花を再訪する。運よく席が空いていてランチセットを食す。その後次々客が来ていたので単にラッキーだった。前回、2021年はコロナ最中で「ならまち」も寂しいものだったが今は店も往来も多くなって隔世の感あり。小路溢れるインバウンド客もいはんやおや。猿沢の池の前、五重塔は修理中で覆いが被されていた。毎度のこと、京都に比べ奈良のサイズは街歩きとして丁度いいと思う。帰路の途中、奥さんは京都駅の伊勢丹で事前に注文していた評判の「ふたば」の豆大福を受け取って帰る。

(大根餅ランチ)

(ふたばの豆大福)

術後、当初の予定通り一週間仕事は休む。目の出血は徐々に引いていったが視力はまだ正常にはほど遠く違和感のある状態で傷口保護のための点眼はずーっと続ける。生まれてこの方、視力には苦労が無かっただけにこの違和感に不自由、この歳にして失ったものの大きさもひしひし感じている。先生からも完全には治るのは無理と言われている。
術後1週間を過ぎて運動OKになる。2月16日(日)、金華山DWにrunに行く。焦点の定まらない低視力のこともあって自転車よりrunの方が安全なので。10時過ぎに出発しいつもの展望台まで到達し下りはドライブウエイではなく山道を真下の岐阜稲荷経由、梅林公園に下って蝋梅の花を見て帰って来た。この時、展望台には年配のハイキング客10名近くが上がって来た。身なりのいいリーダー格の男性が雲に隠れた西方の雪山を指さし「あの雪の山が伊吹、その左が霊仙ね!」「へ―ぇまっ白だぁ!」と年配の女性陣。あまり知らないようで春日谷を指さしている。周囲誰一人異を唱える人はいない。昨今中高年の遭難も多いらしいが、こうやって声の大きい人になびいて方角やルートなど間違うのかも知れないなぁと。人の言うことは鵜呑みにせず客観的事実確認が大事であると心でつぶやく。雪降る冬場にrunは少ないのかも知れないがこの度めでたく登り区間のstravaのローカルレジェンドを獲得した。90日で4回目。
9.13km 1:29:24 9:47/k 獲得171m

(岐阜稲荷)
森永卓郎氏のまんが「日航123便はなぜ墜落したのか」を読了。昨秋、30人待ちで予約入れておいたのが忘れていた。図書館から貸し出し可の案内が来たのが先月末。丁度その時に闘病されていた森永さんの訃報が流れた。「財務真理教」「書いてはいけない」など最近の問題作を立て続けに読んでいたので残念だなあという気持ちに覆われる。この漫画は「書いてはいけない」同様に青山氏監修で内容的には「書いては・・」をわかりやすくした以上の目新しさはなかった。氏の代表作は2003年の「年収300万円時代を生き抜く経済学」だそうで、調べて見ると2004年当時のドルが110円、今がドル150円なので当時の300万円は仮にドルで換算すると今は約400万円強となる。昨今の統計上の平均年収はそのちょっと上くらいの数値らしいので偶然とは言え当たっていると言えなくないか・・?最近巷で噂になっている「ザイムショウ〇〇デモ」というのにも何らかの影響を与えているとしたら氏の発信力やあのキャラクターは得難いほど大きい存在だったかもしれない。また日頃、表現の自由を奉じているはずの大手のメディアがこのデモを報じない点も「書いてはいけない」の日航機事件のそれと構図的には似ているように見えてきて、営業活動のための妥協と不都合に対し自己規制を続ける姿は速い時代の流れの中で一向に進歩の無い姿に見え・・確かにメディアの行動は氏の書かれていた通りに思えるたりする?。繰り返し漫画でも問題を訴えた「日航・・」の件に対する氏の思いは一段大きかったのではないかと、いずれにしても早すぎる死を悼む。

「摩擦をもいとわぬ力で書きつづけ森永卓郎 ユーモア遺す」