欧州オランダ行の1 Anne's house

シチズンMというホテルはビジネスホテルクラスなので狭いが、その割に値段が高い(円安のせいもある)。おまけに観光税というのが日本円にして1万円近く取られ泣ける。但しアムステルダム市内だと更にグンと上がるらしい。唯一良かったのは寝心地と水が飲用可だったこと。オスロも水道が飲用だったが毎日のことで助かる。スキポール駅で切符、アムステルダムトラベルチケット72時間を購入する。地下ホームに降りてアムステルダム行に乗りこみ約20分で中央駅に到着。9:45にアンネフランクの家、15時に国立美術館の予約チケットを購入済み。ゴッホ美術館は1か月前には予約しないとチケットが手に入らないほど人気があって残念ながら取れず。ご多分に漏れずアムステルダムも観光客が押し寄せている。駅を出る時にはゲートチェックがあってオランダは結構しっかりチェックするシステムになっている。駅から歩きだして振り向くと、駅舎の色と言い雰囲気と言い東京駅丸の内側によーく似ている。一応様式が違うらしいが東京よりもこちらの方が建物が大きいように思う。

地盤沈下で傾く)

アンネフランクの家まで歩き始めたが案外遠いのでトラムに乗ろうとすると案外難しい。路線番号、方向がわからず早くも奥さんと言い争う。ここからは自らの実力で街歩きをしなければならない不安がある。ガイドブックとグーグルマップでトラムの番号を確認して乗り込み近そうな停車場で下りる。美しい運河沿いを少し歩くとアンネフランクの家が現れ一安心9:45。家の前には大勢の観光客がいて予約なしではもっと大混雑になるに違いない。携帯のチケットをチェックして入館し日本語のオーディオセットを借りる。新館を見てから隠し扉をくぐると約2年間を過ごした本当の隠れ家に入っていく。悲しい現場に違いなく心は沈むが、フランク家は相応に裕福な市民だったこと、もともとアンネフランク氏は聡明で文才に恵まれた人だったことを知る。諸人口数少なく出口に向かう。

終戦を迎えられざる無念さを胸おく沈め記帳にサインす」

外に出るとパラパラ雨が降りだしている。11時、運河を見ながら歩き昼食は名物のコロッケをカフェルクセンブルクで食す。コロッケ、まあまあ美味しい。道々、カフェと並んでコーヒーショップと名のついた店もあるが、こちらは合法になっている大麻も売っているらしくちょっと危うい。降ったり止んだりする雨の中歩くと偶然にも鮮やかなシンゲルの花市に当たる。軒を並べる花屋はおびただしい数で生花、球根、挿し木、ドライフラワーを売っている。客は多いが実際に買っている人見ないので、こんなに花屋が必要なのか?と疑問に思うがチューリップバブルの国でもあるので歴史が違う。トラムがわからず国立美術館へ徒歩で到達。ここも相変わらず凄い人でうんざりするが15時からのチケットでも14時過ぎに入館できた。チケット類はスマホを使うことが大前提で携帯のバーコードチケットを読み取られ入館。レンブラントフェルメールで有名なこの美術館は規模がいかにも大きい。宗教画から始まって肖像画などを経て延々続くがそのうち疲れてくる。差し詰め最も人が混んでいる部屋に来ると、ああレンブラント「夜警」。ガス張りの中に大きな絵画が入っている。周囲は何重もの人垣で落ち着いて観る雰囲気でもなく皆携帯でパシパシ撮っている。その続きの部屋にフェルメールの「「牛乳を注ぐ女」があってこの一連は部屋は熱気で喉が渇いた。その他ゴッホの自画像も見て一休みのため館内のカフェで休憩する。ゴッホ美術館は見れなかったが美術館2連発は体力的にも厳しいものと思われる。

「人よりも大きく描かれし肖像画レンブラント「夜警」の威厳」

国立美術館正面)

美術館を後にしてトラムで中央駅に戻り、運河クルーズ船のLoversに乗る。満席に近く周囲は中華圏の方で親切だった。エディマーフィー似の船長が舵を取りながら調子よくマイクでギャグを飛ばして英語で案内するものの所々は周囲の笑いについて行けず情けない。幾多の橋をくぐり、運河の両側の家々は均整がとれて美しく貿易商や資本家街など超お金持ちの街らしくフレディーマーキュリーもこんなところにいたのか・・と思う。約1時間ぐるりと巡って中央駅に帰ってくる。

「メガネ橋、どちらを向いても美しき家々ばかりに方位失う」

(マレの跳ね橋)

18時、駅内のファーストクラスというレストランで夕食、しかし帰る段になって列車が止まっているらしく次々キャンセルされていることを知る。何の説明もなく、駅のホームは混雑し次々と表示板でキャンセルになって行き、1時間以上群集とともに2番線、14番線と行ったり来たりするがスキポールに向かう電車は最終的に出ない。「帰れん!えらいことになった」。ホトホト精神的にも疲れてきた時、度胸のある奥さんが偶然日本語で話す女性に声をかけて迂回路を聞くことができた。メトロでZuid駅まで行って、そこで接続する国鉄に乗り換えスキポールに戻る。22時帰着、ここまでのピンチは自身の経験でもそうそうない、何とか1日を上手く回れたと思ったら好事魔多し。

「迂回路を知りてピンチのトンネルのようやく出口、夜22時」

欧州オスロ行の3 Holmenkollen

オスロの最終日、ゆっくり起きる。キッチリした予定は無く、まずはアーケシュフース城を回わり、私希望のホルメンコーレンジャンプ台に行き、その後はオスロ湾を巡回フェリーに乗って遊覧することになった。朝は小寒い街角に出てトラムに乗車し城の近くまで行く。色づき始めた木々の下、石畳を歩いて城の門をくぐる。さほどの一大城には見えないが「アナと雪の嬢王」というアニメの城のモチーフになったことで有名だそうだ。城壁には大砲があって登って見るとオスロ湾が一望でき、ここも複雑なフィヨルド地形であることがわかる。高校生なのか遠足らしく大勢いて、その中の白い服の男子1人がふざけて落ちていた栃の実を蹴り飛ばしたら私に飛んで来て太ももに当たった。白人でブロンドの男子は当惑で顔を真っ赤にして「sorry」と言ったので「No problem」と返す。

城を出て、お昼用にここでは有名なシナモンロールの店に行って購入する。ユーロではないクローネ表示のシナモンロールは高いハズだがサイズも半端なく大きいのでお得感がわからない。こちらではキャッシュレスのカード決済で娘もお金を払うのを見なかった。今度はナショナルシアター駅からメトロ1号に乗る。1駅過ぎ、地下から出ると住宅街を縫って、やがて坂を登っていく。傾斜が徐々急になって登山電車の趣がある。乗客の中にはハイキングの格好も多く、メトロの終点はオスロ市民のハイキングスポットらしい。ホルメンコーレンはジャンプ、ノルディックスキーで有名だが、駅周辺はオスロ湾の見える静かで美しい住宅街で道沿いにレストランなどがある。神戸でいえば山手のような感じもする。道路を歩いていくとジャンプ台の下に出て、ラージヒルのジャンプ台はもう少し上にあってジャンプの台頂上へはエレベータで登れるが予想外に混んでいて、少し並んですし詰めのエレベータで登っていく。ドアを出ると選手の出発地点でここを滑るのはさすがに命知らずと思える。70万都市オスロの市街を遠望する。帰り、旗を持った大勢の団体客がエレベータ前にいて、いわゆる大型客船の団体で当節観光公害の一因と言われるのもわかる。

「急坂を登り見あげればジャンプ台ホルメンコーレン群青の秋」

駅の近くのベンチでシナモンロールを食べてからメトロ電車で下り港に向かう。ruterの切符でフェリーに乗るとここでも野外活動らしい高校生が多い。「ノルウエーは今週、子供休み週間らしいよ」と娘の言葉に納得。オスロ湾は入り組んで小島がポツポツあり、日本ならありがちな橋を渡すという公共事業にならず、このフェリーが島や半島間の交通を支えているらしく約1時間以内で周囲の5個程の島の港に寄って戻ってくる。フェリーは頻繁に行き来し、島に着くと乗降が終わるとすぐに出発する。買い物袋を提げた男性が小道を歩いてカラフルな家に戻っていく。どうもこの船自体も電動なのかエンジン音は聞こえず静かに離岸する。風光明媚な島々を回って戻ってくると、桟橋の向かい側に小さな小屋が海に浮いている。「あれ何?」と聞くと「サウナだよ、こっちの人は好きだね。サウナで汗かいてから海に入るんや」と娘。確かに男女は水着を着ているが寒くないのか?時刻は15時前、カールヨハン通りを歩いていくと昨日もいたオルガン弾きが「ランバダ」を演奏する。帰る前に近くのスーパーでお土産を購入しておく。魚のトマト煮の缶詰は美味しかったので奥さんがガメッと買い込む。

「フェリーから降りて島人帰りゆくオスロの海辺に緑の家あり」

(カールヨハン通り)

(衛兵交代)

スーツケースの準備をして部屋を出たのは16時。駅までの途中、王宮前で衛兵交代をやっていたのでしばし見学する。この4日間をつつがなく過ごせたこと、ホスピタリティに対するお礼と感謝、体に気を付けるようと娘に言って列車に乗り込む。飛ぶような速度で走る電車から去っていく針葉樹の森を懐かしい気分で見る。オスロ空港からのエアーは19時出発。搭乗前にまたシナモンロールを買って食べる。テニス道具を持ち込んだ大柄の若者団体が入って来た飛行機はほぼ満席。サンドイッチが出て約二時間でオランダスキポール空港に着。無事、空港近くにあるホテルに到着する21時。

「心からお世話になったと言いおいて娘に手を振りまた振り返される」

欧州オスロ行の2 Norefjell

娘が立てたオスロ滞在期間の予定では2、3日目は北西方向の山岳にハイキングに出かけることになっている。ハイキング、ヨット、コテージなどアウトドア活動がこちらの人のメジャーな余暇の過ごし方らしく娘も社員同士で出かけている。9月30日、朝8:45に近くのHertzまで歩き車を借りて1泊2日でハイキングに出かける。この日のために国際免許を取って来た私にとって英国以来の海外運転、しかも右通行左ハンドルは初めてで時差ボケもある身でホント大丈夫か??正直おっかなびっくりもの。車はプジョー5008ディーゼルで少々大きく見えたがこちらでは普通サイズらしい。娘のナビでスタート、湾岸のヨットハーバー沿い6車線をしばらく走り山塊に向かう道に右折。日本と違い信号がほとんど無く延々止まらないのは返って疲れてくる。日本では見かけないランドアバウトがでてきて焦りながら安全運転に徹するが間違ってワイパーを何度も動かしてしまう。途中のスーパーで休息すると駐車場の一角にテスラのスーパーチャージャーコーナーがある。オスロ市内でもテスラは多くてタクシーは主にモデルXが使われていた。バスに清掃車含めEVが広く普及していて、マフラー音はむしろノスタルジックな響きで少数派になっているようで交通量の割に街路が静かに感じた。約120km走行し山間のEggedal地区に入ってSPARという唯一のスーパーで昼食休憩。ここからは山岳路を登ってMadonnaskulpturen(マドンナ像)というピークにアプローチする駐車場に着くとほぼ満車12時半。老若男女が次々山道に入っていく。

予想より気温は高く厚着は不要。最初は整備された石の階段を踏んでスタートする。起立した針葉樹に下草は赤茶けて紅葉しているが、よく見るとこれはブルーベリーで実がついていてそのまま食べても問題は無い。見える限りの草紅葉は全てブルーベーリーらしく奥さんは獲るのに時間をかけている。やがて尾根に出ると森林限界を越えた荒涼とした山並みが見える。手垢のついた言葉、「ノルウエーの森」はこれか・・。思いのほか風が強くなり一つの頂上に着くと時折突風並みの強風に、体が持っていかれる。さすがにこの強風は・・と安全をとって引き返すことにする。マドンナ像は見えているもう一つ向こうのピークらしい。見渡す山々の上を雲がビュンビュン飛び去って行く。

「午後の二時スカンジナビアの越風はマドンナ像へのゆくてを阻む」

「岩山は荒涼とのみ草紅葉ブルーベリーは密かに実る」

(左ハイキング、右スキーのクロカン地図?)

(ブルーベリー)

再び車で今日の宿泊先のNorefjell Ski&Spaへ車で向かう。標高800mくらいにあるスキーリゾートホテルは相当大きく周囲にはコテージなどを従えている。昔はオリンピックのアルペン会場だったらしく遠く山の頂上付近まで行くリフトが見える。夕食は室内のキッチンで自炊するが十分に満足。慣れない運転で疲れた私は早々眠る。翌朝はビュッフェで朝食の後、ホテル周辺を散歩するとMTBの人やハイキング姿の人が次々出発していく。山道をブルーベリーを摘みながら散歩の途中、娘がアリ塚を見つけたので珍しいので写真を撮る。こんなところにあるのか?生きている蟻塚かわからない。周辺にはCABINと呼ばれる小屋がポツポツ見え、娘の職場のローカルスタッフはたいがい一族や先代からのCABINを持っていて週末など過ごすらしい。土地代は高くないがインフラは金がかかるとのこと。ノルウエーの物価はEU内トップクラスで年金含め富裕なお国柄、ライフスタイルは羨ましい。11時に帰路に出発、道路わきの美しい湖で写真を撮りながら、13:30に無事オスロのレンタカーにたどり着き私は大役を果たす。

「こんなにも普通にあるんだ蟻塚は塚の頭に怪しい穴あり」

(蟻塚、腰の高さほど)

新セメスターが始まる息子はこの日夕方のフライトでウイーンに戻るため15時に駅まで見送り一旦お別れする。その後、王宮から続くメインのカールヨハン通り沿いを歩いてからフグレンでカフェ休憩。意外とこじんまりしていて店内の席は埋まっていたので外の席で休憩。そろそろ夕暮れに近い。ノーベル平和賞の授与式が行われる建物などを見て夕食はフィッシュ&チップス軽めに済ます。

「アジサシが目印オスロ フグレンのオープンカフェに日本語を聞く」

 

欧州オスロ行の1 ムンク

今年は春から仕事で長期間の滞在している娘と大学の息子を訪ねるという目的で欧州渡航を考えていた。ただ、ぼんやりした淡い希望は抱いても日々の生活に折り合いをつけて、いざ実行に移す段で腰は重たくずるずると暑い夏を越えてしまった。奥さんと自分も仕事、義母のケアを抱えてれば区切りがつかず、時悪しくインフレに益々の円安になってコスト高が避けられなくなっている。でも、しかぁ~し、あれこれ頭をひねり今後において絶好のタイミングなどくる予感はあるのか?、パンデミックに戦争など不測の事態もあり、自身の年齢も考えると何とかできる時がその時、という思いで9月末出発日を決めたのはギリギリ8月末だった。娘はあと数ヶ月で帰国するが冬物と夏物の服の入れ替えと息子への物資の輸送と言うのがもう一つの目的でもある。行程は娘のいるオスロ⇒オランダ⇒息子のいるウイーンの順番に回る9月29日~10月10日。オスロとウイーンの間にオランダを入れたのは風車を見たいという私の存念が奥さんの意と一致したため。
9月28日、自分の仕事が最後の最後までトラブってしまい17時まで続く。業務と準備にに疲れ果てた状態で新幹線に乗って羽田空港に向かう。クタクタ状態で体調維持のために電車で葛根湯を飲む。蒸し暑い空気の羽田空港で先に送っておいたクロネコからスーツケースを受け取る。多少ユーロに換金するが160円を超えたレートに円安恨めし。今はロシア上空を飛べず南回りのドバイ経由のエミレーツ航空で最初は娘のいるオスロまで約20時。深夜0時過ぎに出発、ドバイまで10Hとオスロまでの7Hの間細切れに眠ったとは言えほぼ一昼夜以上寝てない状態で頭がボーっとする。経由地のドバイ空港では好んで読んでいる経済アナリストが書いていた金のショップを覗いてみる。これが空港にあるとは・・金嗜好強い中東の人に限らずここではいろいろな人種の人が熱心にショーケースを覗いていたが何故か値段が書いていないので何か聞くのも勇気がいる。

頭も体もフラフラで29日の昼12時過ぎ、やっとの思いでリュックを背負いスーツケースをコロコロ引いてオスロ空港から転がり出る。不意にポンと肩を叩かれたので振り向くと「なんでや!」。ウイーンいるはずの息子殿、実物が大笑しいながら立っている。私たちを驚かす企画りだと知りなんとも嬉しく声が上ずる。慣れた手つきで自販機で切符を買ってもらい鉄道に乗る。約30分程度でオスロ中央駅の隣、ナショナルシアター駅で下車する。ホームで元気そうな娘殿と再会し家族で抱き合う。オスロは晴れ、20℃弱のほどよい気温で日差しは強く乾燥して空気は軽い。駅前には王宮があってその広大な庭先を通って娘の社宅まで10分ほど歩く。家族4人が直接揃うのは実に久しぶり。社宅は駐在員向けのものらしく2ベッドルームで4人でも十分広く日本の3LDKくらいはある。しばらくの休憩後、在宅勤務の娘を残し息子と私たちはムンク美術館へ向かう。海外SIMに変えた携帯で娘の言う通りにオスロ市内交通系アプリRuterを入れ周遊チケットを購入する。息子に連れられトラムに乗り込むと行き方を理解しているようで頼もしい。10年前の欧州旅行とは違って今は連れて行ってもらう立場に変わった。「叫び」で有名な画家の美術館はオスロ港の入り江に面している。隣のオペラハウスともども風光明媚で対岸には超大型客船も停泊している。エドワルド・ムンク、絵は暗く、神経質で陰鬱な色調であるが私にはどこかユーモアが見えるように思えて、特にオッサンの絵など気に入った。

「チケットを入れた携帯手に持ちて息子に離れずトラム乗り継ぐ」

(これはALICE NEEL作)

(美術館より)

「叫び」の前は特に人が多く、デッサンなど含め3枚が30分交代で展示されるので一通り見るには最低でも60分かかる。夕食は娘が予約した波止場近くまでバスで移動。夕暮れの波止場にはヨットが多く係留されている。Lofotenという店はシーフードで大変美味しく満足する。しかし驚きは最後のデーザートで「HappyBirthDay」と書かれたホールケーキで私の2か月早めの私の還暦祝いだった。娘と息子が企画した突然のはからいに思わずまぶたが熱くにじんだ。決して出来た父親でもなかった私に対する娘と息子の気持ちにに感謝の想いがあふれる。「これが欧州品質や。日本ではケーキ屋のバイトでもこれ以上や」とケーキに書かれた文字の不細工さを、自らケーキを作る息子は少々厳しい目で指摘し笑う。店を出ると暗い空に満月、対岸にあるアーケシュフース城の上にいわゆる中秋の名月が輝いていている。

「六十年おももよらぬこの夕食、オスロの港に夜風は優し」

「ハッピーと書かれたデーザート還暦の祝いと知れば瞼は熱く」

 

九頭師坂周回クライム(57km)、長良川花火、林真理子氏「8050」読了

世間は山の日(8/11)から盆休み週間らしい。盆も勤務はカレンダー通り。早朝のTVニュースを見ても、伝えるアナウンサーも入れ替わりで休暇を取っているらしく、どこかニュースの夏枯れ的?雰囲気は流す側の事情にあるのかも知れない。地域の話題などのんびり長々見ても仕方ないのでTV東京系経済ニュースを見る。思うに、割と重いニュースがスルーされる事も多いようで、むしろメディアは何を伝えていないかを注目すべきかと思う。
兎に角37℃前後の日が続いている。今年は岐阜よりも東北、北陸の気温が高いのも驚きで、南洋上の台風からくる風が湿度と高温を持って来て不快そのもの。夕方の散歩は下がらぬ気温の中、蒸し焼き窯の中の芋の気分。暮れる前の空に立ち上がる雷雲が雨を降らさないのが恨めしい。ダイニングのカシオの温湿度計は壊れたかのように湿度が振り切れHiを続けて、覚悟はしていたが秋の気配はまだ遠くひと月くらい先か?。

日々TSMC微細化回路と格闘。FFETという立体構造のデバイスはプレーナー型に慣れ育った自身にはイメージしにくく苦手意識がある。そのさなか、人材会社からのコンタクトメールが最近増えてきた。これも半導体業界の特需的か?繰り返しの熱心さから、「こんな老骨にもまだ関心を持ってもらえるとは・・」と一度話を聞いてみることにする。人にもよりけりとは思うが、声若そうな担当氏は表面的な最初の5分の話の後の本題、業界の仕事にはあまり詳しく無いようで徐々に冷めていく。デザイン側、プロセス側の細かい業務分担とスキルの種類、特にPDKの出来やそれを使ったデザインに関するフローについて説明する側になってしまい・・?これはなかなか大変かも・・という印象。担当殿の言う早期立ち上げ!目標にしては竹槍戦術を彷彿させるようで、人材の補充は容易に思えぬ、いっそどこか専門会社を買いまくる方が手っ取り早いように思った。話は補助金絡みの新先端半導体製造会社の話とわかったが、業界について分かりやすい湯之上氏の記事にあるように製品の買い手にでも出資してもらわないと操業立ち上げ早々に経営も見通しが悪いのではと思う。1年前とは真逆に今年に入って業界は急激な需要悪化で製造ラインの赤字と浮き沈みは特に大きいのでなおさら。

「蛇口から頼みもしないお湯出でて 温泉ならぬ猛暑の水道」

「還暦のラインを前にここからは心と体の耐久試験ぞ」

「いろいろな道あり角ありこの陽なか街路樹緑陰ひたむき歩く」

8月に入って平井坂、はじかみ林道などに自転車で出かけてきたが周辺の3時間コースの峠のネタも少なくなった。3連休の初日昨日(11日)は久しぶりに九頭師坂、ラステン洞戸、佐野坂の周回に出かける。朝5時に目が覚め、疲れで首や腰が痛く迷った挙句、福岡伸一氏「人生は一回性である」という言葉を思い出して出発する。猛暑日の始まりの長良川を渡り三田洞、椎倉坂の緩やかな峠を越えて右折、九頭師坂方面に向かう。日差しが厳しく背に受けながら登坂を開始。水田の中の道、犬の散歩している人の横を抜け杉林に入ってから斜度がグッと増す。以前はこんなに厳しかったか?記憶も薄いが懸命にペダルを回す。やがて尾根筋に出て少し休める斜度のあとしばらく登って見覚えのあるトンネルが見えゴール。1.9km平均勾配9.8%とそれなりの坂だったんだと感心するが、しかし暑い。トンネルを洞戸側に抜けてラステン洞戸の坂を上ったあと佐野坂峠を下って帰路、岐阜大花火の準備に忙しい長良橋を通って無事帰着。今回もそうだったが、この時期、峠道の登りで顔の周りにまとわりつく羽虫に悩まされる。調べると「メマトイ」という虫らしいがコイツが頭の周囲を飛び回り始めると気が散って、しかもアブに対する恐怖感もあってどうもこの時期モチベーションが下がってしまう。
58.42km 3:00:09 19.4k/h max51.5k 獲得630m

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同日、長良川大花火大会が4年ぶりに開催されたので「花火」と聞くと血が騒ぐ奥さんを前に自転車でトコトコ夕暮れ19時から出かける。今回、予想外に打ち上げ場所近くの川原町まで行けたのでほぼ頭上に上がる花火を楽しめた。花火に詳しい奥さんから「これは新種だ、違いない」と説明をうけるが、わからない私は「ああ、ええもんやな~」と言いつつ次々上がる花火を約1時間見る。心なし人が少なく感じたのは祝日で操業した会社も多かったせいらしい。

司馬遼太郎の本を苦戦しながら読んでる最中に、また奥さんが読んだらと、林真理子氏「8050」が置かれていったので速攻で本日読了。氏の本を読んだのは初めてだったが登場人物の会話でストーリーが成り立っているので脚本のようで早く読めた。ちょっと前から言葉として社会的に話題になっている「8050問題」が取り上げているが、この8050をストレートに取り上げてはおらず、どちらかと言えばその前の段階にあるイジメ問題不登校、ひきこもりがメインテーマになっている。エンディング近くの展開が、自分としては何故?と思う違和感を持った部分もあるが最終的には一応決着がついて爽かな読後感はある。イジメや取り巻く人の無関心、弱者に対する打算的な無視、家族内の葛藤や孤立など当事者の状況が描かれており丁度、話題の利害優先から長年社会的にスルーされてきた性加害問題にしても社会的病根には似たような構造があると思えた。強いバックを持たない弱者は声を上げにくい。いずれにしても、女性の観点からの人の見方、値踏み、見栄や嫉妬などの人物描写にリアリティもあって女性の方からの支持は大きい作家なのかなあ・・という印象。

 

伊自良湖スカイウエイ登坂(53.8km)、梅雨明け猛暑開始、堤未果氏「100分で名著ナオミ・クライン ショックドクトリン」読了

海の日の3連休の中日、7月16日に姫路に早めの盆参りとして帰郷する。多忙、相変わらず、5月連休も行けず、来るべき盆休みの休暇取得も視界不明瞭な状況にて、仏前に行けるときに行っておくという考え。当日、梅雨が明けたのではないか?と思われるような暑い日になったが母や兄と会って近況を報告。あいにく義姉は用事で不在であったが前から欲しいと話していたパスタのペペロンチーノなどに使うべく赤唐辛子を余分目にもらう。小高い丘にある墓に参ると、岐阜よりいくぶん涼しいと思う風が水田の稲を揺らして通り過ぎる時のサーッという音が心地よく聞こえる。過去、心臓や肺を手術した母にとって猛暑の過剰な気温と湿度は体には負担になるはずで「くれぐれも・・」と気遣いを述べて14時に失礼する。

(姫路駅500系

7月20日に梅雨が明けたらしいが、岐阜市内では一週間前くらいから暑い日が続いてもうとっくに梅雨明けムード。暑日でも運動不足解消のため早朝散歩は欠かさず天満宮から清水川サッサと歩く。野良猫も哀れ、暑さでダウンか見ることも少ないが、在宅勤務の身の寂しさもあって、偶然シマちゃんに会うとほんわか心が軽い。

「清水川あさの散歩にふく風もいよいよ冷えぬ熱中危険日」

「暑きこと寒きことにも幅狭く難儀となりぬ還暦の前」

「泣くものか、「達郎」スピーチ聞くあとの潮騒の曲の悲しさ」

そんな折、義母が骨粗しょう症からくる骨折が原因で救急搬送となる。それ以降歩行が不自由になり本人の意向もあって介護施設を検討することになった。こうなると老いて、複数階層の必要以上に大きな家に住むのは大変で、こじんまりとしたマンションなんぞがいいのかも知れない。近所の加納界隈には大きな家も多いが老齢化が進んで空き家らしい家が増えているのはやむを得ないことか。自身居住しているマンションも朝晩が冷えている時期はまだ良くて、ペアガラスと建物の断熱性能もあるのでエアコン無しで過ごしていても、35℃以上の猛暑日が3,4日続き始めると鉄筋コンクリート自体の熱が引かなくなって部屋が暑いままで夜もクーラー無しでは寝れなくなる。恐るべき岐阜の猛暑が今年は早くも始まったようで先々思いやられる。電気製品(LSIも同様)はスタートアップ時の電力が最も大きかったりするので小まめに消さず数時間使わないとき以外はずーっと稼働状態にする。それにしても全国的に猛暑日が多くなっているが懸念された電力不足のニュースが無く、要するに電力料金の高騰が皮肉にも効果を出ているのかもしれない。

今日、以前聞いた伊自良湖スカイウエイを目指し早朝5:20にスタート。晴れの予報も長良川忠節橋を渡ると路面がウエットで空は灰色の雲に覆われる。想外に天気が悪く1Hで伊自良湖のたもとに到着した時にはパラパラと雨が振り出す始末。「予報め、外しやがったな・・」愚痴をつぶやき獣ゲートを過ぎて登坂開始するとますます深い霧雨の中を登っていく。道を渡るグレーチングという金属にタイヤがスリップするので要注意しつつ高度を上げ、尾根らしい所に出ると下界はガスが漂って視界は全くない。斜度が緩くなってやがて三叉路に到着しゴール。根尾方面に下りる道はガードで閉鎖されている。標高は360mくらいなので百々が峰程度、周囲の山々が見えるので本来ならば見晴らしは良いところと思う。外山方面の林道を下る途中で下界が見えたので写真を撮る。高圧線が頭上にあって林道の目的は高圧線の整備用なのかもしれない。外山集落に下って鹿穴峠を通って9時前に帰着した時は霧雨が噓のような猛暑の朝になった。通称伊自良湖スカイウエイは湿度の低い時期、秋がいいに違いない。
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53.84km 2:50:24 18.9k/h 獲得630m

堤未果氏「100分で名著「ナオミ・クライン」」読了。これは先日のTV番組でやっていた内容のダイジェスト的な雑誌でもう少し詳しく知りたいと思ってわざわざ購入した。最近よく見聞きする「ショックドクトリン」という言葉は天災、混乱、戦争などの危機における集団心理(ショック)に便乗する、惨事便乗型の富収奪システムのメカニズムのことを言うらしい。私の学生時代からの世界で起こったクーデータ、戦争、災害などが対象になっているようで、シカゴ学派の推した「新自由主義」と言われるシステムは世界のいたるところにねじこまれているように思われる。富の過剰な収奪を目的とした貨幣経済上の植民地的な構図につながっていると、トリクルダウンという詭弁も空しい。新自由主義的資本主義は真に民主主義と言えるのか?と疑問を持つ一方、生活のためとわずかな部分的にも一員になって生きざるを得ない自分の存在の矛盾も感じる。取り上げられた一事例に1980年代のフォークランド紛争があって、TVニュースの記憶は自分にもあって、その後にあったW-CUPのアルゼンチン対イングランドではただならぬ緊張の中アルゼンチンが勝った時の狂喜した群集の意味なども感じながら読めた。とかく世界は難しく簡単にいかないと感じる。

 

松尾峠(52.06k)ライド、マティス展その他、司馬遼太郎氏「神戸散歩、横浜散歩、芸備の道」読了

2週間前の6月10日に近場の本巣の奥、伊自良に松尾峠というところを見つけたので行ってみる。伊自良湖スカイラインというのがこれだと思っていたところ、もう一つ奥にある別の林道と事後に教えてもらった。朝、5:30スタート。雨予報は曇りに変わっており蒸し暑い空気の中を長良川を渡って北上し高富を抜けて行く。山県で左折し、まずは豈坂を登坂し通過後下って県道185号を見つけるものの通行止めの看板がある。ここは行くだけ行って判断することにして構わず登坂開始。さすがに通行止めだけあって道路の真ん中から草が生えたりしていい気分はしない。路面の落枝に注意しながら長々と続く坂道を登って頂上(286m)と思われるところでゴール。見通しの良い風景も無い山林の中の峠で期待外れに終わる。下りは落石に注意しつつ鹿穴峠を通って8時台で帰着、今回はすんなりこれと言って印象の少ない峠だった。次は伊自良スカイラインに期待するが何せ湿度も高くて暑さが酷くなってきた。
52.07k 2:50:01 18.4k/h 獲得463m
https://strava.app.link/TzUffsJPgBb

(松尾峠)

6月17日(土)所用にて東京へ1泊2日で行く。用事は日曜日の午前から午後にかけてなので空き時間は観光を兼ねて出かける。奥さんが行きたかった等々力渓谷に行く。世田谷の市街の中にこんな自然が残っているのに素直に驚く。暑かった駅からの道と比べ少しひんやり涼しく感じる。それなりに人が行き交い、歩く時間とともに都会の中の渓谷としての驚きはある・・が、しかし純粋に渓谷として見たときに岐阜の板取川の湧水や美しさを思うと少々持ち上げられすぎのような気もする。周辺人口の多さからやむを得ないところか。その後、奥さんの提案で上野の美術館でマティス展を見てから私提案の日本橋中山道東海道の起点を見学し丸の内のビルから東京駅など見て宿に向かう。宿は外国の方がとても、とても多く翌朝チェックアウトの列が異様に長い。円安、貿易赤字も寂しい今日、外国人向けには値付けをドル連動にして利益をガッポリとれるようにすべきと私個人的には思うのだがとにかく混雑していて朝から労多し。午後過ぎまでに用事を済ませて私本命の都電荒川線に乗りに行く。時間の関係で全区間は乗れなかったが乗り鉄派としてこのチンチン電車を味わうが、ある種の既視感、京都の嵐電と大きく変わらん気がした。最後に古川庭園のバラを見てから帰路につく。この両日、普段歩くことが少ない私は大いに疲れてしまう。観光半分の東京巡りも久しぶり、暑さの中?、早足の奥さんについていく行く?いや、何より人の多さと混雑に疲れてしまった。コロナも増え始めているという気がかりもあるが、それなりに知っているはずの上野も駅から公園と美術館までのおびただしい人の多さに参ってしまい「前、こんなに人いたっけ?・・いつの間にかオラは東京の人混みに耐えれなくなっちまったなぁ」ヤレヤレ、つくづく年齢を思う。

「世田谷の等々力渓谷意外さに「いいね」の数は高まりやすし」
「街道の起点となりし日本橋 中山道も川面にゆれる」
「唯一のチンチン電車荒川線一両なれば空く席はなし」

等々力渓谷

本日、義父の納骨を行う。葬儀一連を無宗教でと、なべて合理的な義父の生前の希望と奥さんの家族のアクセスも念頭に金華山に連なる水道山の山裾、梅林に永代供養の墓を決めたが、実物はそれなりに立派に思えた。少子化に伴い墓の維持は労力も経済的にも先々の家族のことを考えれば今までのような伝統的な墓守スタイルは持続・・サスティナブルではなかろうと・・。それにしても、今はまだマシで次代の自身の頃には少子化もあって更に簡素にせざるを得ない?そんな可能性も考えておかなければと思う。

やっと司馬遼太郎氏の街道をゆく「神戸散歩、横浜散歩、芸備の道」読了。芸備の道では毛利氏の城、吉田を中心に書かれているがこの章はなかなか読むのに時間がかかった。全体的に関心が薄かったことによるが、何事も発見はあるもので驚いたのは分水嶺が瀬戸内からわずか20kmの所(上根付近)で広島県でも南寄り、そこ以北は日本海に向けて川が流れているらしくこれには意表を突かれた。神戸の再度山、布引の滝、水源地、横浜の山下埠頭など知識がある所は読み進めやすかった。神戸、横浜の港の成り立ちや歴史が書かれ対比されている。今どきハイカラな響きを持つ居留地何番街という(中国で租界)という言葉の持つ意味など興味を持って読めた。

 

迫間不動尊クライム(54.5km)、匂蕃茉莉、萩原博子氏「私たちはなぜこんなに貧しくなったのか」読了

五月連休もカレンダー通りなので巷の長期連休の間の2日も勤務。おまけにプロジェクトが再び並行するので連休の間も休みを時々休んでPCに向かうことになりそうな予感。始まる前から5類移行にアフターコロナの世間は渋滞だの電車混雑だの騒がしく気が散るのでTVニュースも見ない。
やっと4月28日に中間デザインレビューというのが終わり、29日は気晴らしに自転車に出かける。各務原の東に迫間不動尊という激坂で有名なところがあると聞いて行ってみたくいと思っていた。早朝5時台に出発、各務原の市街を走ることは稀で、つい先日大学時の友人が来て航空博物館を案内したが、そこそこ知られているこの博物館は自身としては二度目だった。土地勘がないので地図を頼りに県道を東進する。早朝は車も少なく曇天の涼しさにも助けられ順調に苧ケ瀬池に到着。ここを左に折れて北進するところで一回道を間違える。もとの道に戻って登坂が始まる。最初は2車線の立派な道でやがて頂上らしい三叉路に達して道を少し下ったところに激坂に向かうゲートを発見。自転車侵入禁止と書いてあるが、早朝でもあるし問題無しとゲート横をすり抜ける。最初からインナーローに入れて20%近辺と思われる坂をエッチラオッチラ登る。車一台分くらいに道は狭く圧迫感があり最初から思いやられる厳しさ、聞きしに勝る斜度がずーっと続く。やがてヘアピンカーブの上から中年男女のハイカーが6人ほどで下りてきた。既に汗だく必死の状態でペダルを回しながらすれ違いざま女性が、「ここってさぁー、自転車よかったっけェ?、知らんけど~!キャハハ・・」なんともやるせない言葉を浴聞いて張り詰めた気合はプツンと音を立てて切れ、ヘアピンカーブで足をつく。「なんや、「知らんけど」の使い方違うやろ・・」息も絶え絶えに思う。ぼーっと見ると結構な急坂で、自身として関西の暗峠とか傍待峠以来かも知れないと思う。そこからは気楽にペダルを回してゆっくり登っていく。薄雲の空を見ながら電波塔まで来てゴール。ツツジの花に鴬があちこち鳴いている。高温ピーカン天気でなくて良かった。休憩中に何人かのハイカーと挨拶したがここは各務原アルプスと言うトレッキングコースらしい。少し下ったところに「ぶどうの森」という看板の展望台があり名古屋駅のビル群が見えてまあまあ良いところに思った。急坂を下って関市に下りるつもりが何故か道を間違えて犬山に下ってしまい、仕方なく犬山城の下から木曽川CRに乗って帰宅、10時。さすがの激坂だったがペース配分もわかったので次はなんとかなるかも知れないが、リアのスプロケットは28Tから30Tにしたいと思い始める。
54.46k 3:00:10 18.1k/h 獲得492m
https://strava.app.link/ztagvuQ6lAb

同、29日の午後、娘が帰省して来て岐阜駅でピックアップ、その足で義父の入った介護施設を見舞う。先日ビデオ電話で息子と話した時の義父はまだ元気だったが、このところ発熱もあって様態が悪くなりつつあった。その後の数日を経て奥さんの親族が見守る5月3日に息をひきとられる。真に急なことで喪主となった奥さんのサポートをしつつ家族葬儀を含む一連の儀式や出来事で仕事どころでもなくり連休は瞬く間に終わってしまった。85歳、義父の家には今年も匂蕃茉莉(バンマツリ)の花が開いて甘い香りを放つ。この花を義父は好きだったそうで、家の庭はいっそう広く寂しく思われた。歩行が困難になってから一度自宅に帰りたいという願いを叶えるべく、アフターコロナで介護施設から車椅子で短時間の帰宅を検討していた矢先のことで、つくづくやれることは思い立った時にやっておくべきとの心残りあり。介護施設に向かう道路脇の花壇には何もなかったように春の花が咲く。

「緊張の記憶よ義父と初めての卓上挟みて会いしそのとき」

「炉の中に棺の義父を見とどけぬ いつかは果てる命といふもの」

「父と呼ぶひとは亡くなり匂蕃茉莉の香る庭からっぽの空」

本日、萩原博子氏「私たちはなぜこんなに貧しくなったのか」読了。本来この手の経済紙的な記事の本は読まないが、奥さんがよかったら読んでみたらと置いて行ったので、司馬遼太郎を置いてこちらの斜め読みを始める。私たちは・・・というところを、日本は・・、我が国は・・と置き換えて最近の円安、そのうち経常収支黒字もだんだん減っていくという話題はあちこちに出ている傾向の話で今どきは珍しくはない。数年前は、モノづくり日本の底力と持ち上げた話題も多かっただけにこの種の記事の信用度にも注意は要する。年金問題、大蔵省、バブル、消費税、シティバンク新自由主義などなど昭和から現代に続く問題シリーズの歴史と解説がわかりやすく読める内容。最後に肝心の「なぜ貧しく・・」というところの掘り下げがあっさり経済中心で語られているせいか納得感やや少ないように思える。ITや半導体の遅れにしてもどうか。もう数十年の昔、台湾の新竹工業団地の某社の社員駐車場にドイツ製高級車がズラズラ並んでいるのを見て、その当時ですら日本の電機会社より勢いがあると個人的に印象を持った。その認識は正しかったか?今は大きな差になって現実が見えている。経済とテクノロジは密接でいまだに理系、文系のコース分け教育や理系専門人材の給与水準が他国に比べて安過ぎ、などついていけなくなった理由は他に多々、教育や社会文化にも多岐にわたるように思われる。全ては後講釈という寂しさあり。

 

桜の金華山DWrun(10.6k)、淡墨桜ライド(49.4km)、「コンピュータおばあちゃん」考

めでたく今年も開花、正式の開花は3月16日だったらしい。3月21日、春分の日に久々に金華山DWにrunにでかける。AM5時に目を覚ましたが昨晩の寝床で本を読みつつ寝落ちしてしまったせいで本は頭の下敷きになっている。読書体力すっかり欠乏気味で寝落ちすることが多くなった。5:40にスタート、今日は湿度が若干多いらしく汗がそれなりに出る。ドライブウエイ(DW)の展望台から見る山腹の所々が白くなっていて山桜が咲いている。街から離れて静かな空気に鴬の鳴き声とキツツキのドリル音が聞こえて早春の山は活気がある。下り道の木陰では藪椿から赤い花が落ちる。清水川まで帰ってきて一分咲の桜並木を写真に収める。上には上がいるものでこんなマイナーなコースでも定期的に走っている人がいるようで、strava上で一旦一度取られていたローカルレジェンドを再び取り戻してささやかに自己満足。

10.62km  1:30:12  8:29/km  獲得146m

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先週の平日は天気も良くて昼食は奥さんに自分の持っていく弁当と同じものを用意してもらい清水川沿いの公園で昼食と取る。ノーマスクが解禁になってマスク無しの方もゾロゾロ多く歩いている。確かにこれが「戻って来た日常」ということらしい。

「気がつけば低き羽音にかこまれてミツバチサクラの番地をめぐる」

(昼、清水川公園)
4月1日(土)に天然記念物で有名な淡墨桜(うすずみさくら)を見に行く。その後の用事もあるので10時までに自宅に戻るために朝5時起床、5時半にロードを車に積んで出発し糸貫スポーツセンターにデポ。このところ朝昼の寒暖差が大きく最高24℃でも朝の道路標示は5℃と寒いのでウインドブレーカーを着る。昔の記憶を辿りつつ田舎道の満開の桜を見ながら根尾川沿いに北上、撮り鉄マニアに有名な樽水鉄道を何度か渡るときに1両の列車を見る。淡墨桜に7時半到着、早くも駐車場前の渋滞は始まっている。「この時間が正解だがねー」と整理のおじさんは誰ともなく話している。過去何度か来たが桜が開花しているのは初めて。ピンクより色が灰色がかって名前が付けられたらしいが確かにそう見えなくもない。桜並木もいいが存在感のある一本の巨大な桜の老木を見るのも実に良いと思った。北の遠景は雪が残る恐らく能郷白山と思われる。次々人が登って来る道を退散するとロードバイクの人が二人到着した。ここからの帰路は更に多くの集団走行のロードバイク軍団とラッシュのようにすれ違い挨拶を交わしながら帰る。9:30に自宅帰着。獲得標高300m以上と言ってもほぼ平坦路で労はなかった。
49.43km 2:16:57  21.7k/h max45.3k 獲得367m
https://strava.app.link/izsAsg6tZyb

(奥、能郷白山

今週の4月2日、坂本龍一氏、訃報ニュースが流れ静かに読む。癌の治療中でしかも再発から闘病が続いていたことは知っていた。昨年末、最後のコンサートと言われていたフイルムコンサートを見て心には準備時間があって、その点高橋幸宏氏のケースとは違っていて冷静に記事を読んだ。1日、2日と日を追って記事続々と配信されている。学生時代のメディアバーンツアーに始まりビューティー、ハートビートなど計4回+YMO再結成ツアーを追っかけていたころを思い出す。最初のメディアバーンコンサートは学生の時でハードなバンド演奏から中盤は一転してスポットライトの中、エリック・サティの「ジムノペディ」「戦メリ」のピアノソロがモノローグのようにハットするような静謐さで美しかったのを記憶している。氏の本質はむしろこのピアノソロにあるのかも?と思った。その後、ワールドミュージックの走りだったのか、オキナワチャンズをフューチャした沖縄民謡、アラブ民謡などなど音楽の振幅が広く、街の騒音も音楽・・と私にはあまりににも抽象的に思えるようになって自身の多忙もあって疎くなった。LP、CDに本、奥さんからスペースがないから「断捨離!捨てろ!」と迫害を受けつつ大量のFM番組(主に東芝プレミア3)録音テープなどが多々、今では廃盤で手に入らないものが多くお宝と称して防衛線を張っている。ビハンドザマスク、コーリングフロムトウキョウ、ちんさぐの花、yuo do me、sayonara・・業務に疲れた午後にBGMで音楽を流しつつ、「黄土高原」の古びないオリエンタルな曲を作った人はもういないのかと目尻は熱くなる。

今は便利になっていて、ユーチューブで過去の映像を追っていると「コンピュータおばあちゃん」という「みんなのうた」の映像を見つける。確か高校生の頃だった?何~にも知らずにTVで流れていて何故か耳に残るフレーズで次に見たら、「あれ、坂本龍一が編曲演奏かぁ確かに、らしい感じや」とこの手の軽いノリの曲でもクオリティがあって流石と思った記憶がある。イージーな作りのアニメも実に懐かしい。80年代、あの頃にあった未来の老人を明るくイメージしたものだったかもしれないが、お笑いギャグには違いないものの40年を経た今、テクノロジーについていく活発なおばあちゃんはそうそうはいない・・?。急速に少子化、老化する国の中で介護に健康と経済的担保に汲々として、伸びた寿命時間を明るく進歩的に活用するイメージは自分の周囲を見ても難しいと思われる。今どきはお婆さんになってからもリスキリングなのかもしれないが、自分達世代前後がメインとして生きてきた過去30年間の停滞を負いつつ、その世代も当事者として老人テリトリに入っていかざるを得ない・・と思うと、コンピュータお婆さんの流れていた時代はつくづく良かったのでは?と思える。

「龍一の「黄土高原」で空をみる瞼にあつく訃報のしらせ」

「幸宏も龍一も逝きこのくにの青春だつた記憶は霞む」

犬山往復ライド(54km)、下呂中津川間バス行、佐藤愛子氏「90歳なにがめでたい」読了

年末に義父、年始に義母が相次いで救急で搬送され処術後の入院続く。コロナではないが従来からの病気が一気に進んだらしい。コロナの自粛で外に出歩かない日々が長く続き、つまるところ筋力と体力の低下が身体的老化を進ませたとか・・・医者先生の話を受けても今更という気がした。昨年も季節ごとに散策に出てはと、声をかけたものの外出を控えられ日本的同調性、公的抑圧も遠因と言えるか・・?。病院は3か月で退院の話がある一方で歩行不自由なままでは自宅の階段も厳しく慌てて入所施設を探し始める。思ってもみなかった展開に後手後手感あり。それぞれ別の病院に着替えなどを届け、実家の面倒や整理など週末もルーチンワークが増えて、近所にいる親族はペーパドライバの奥さん一人なので介護と言う問題が自分にも顕在化することになった。色々と気が張っているせいか今年の花粉症は何故か大した症状が出ていない。

「皮肉にも苦労といふは体内の骨を鍛える重力のようなもの」

先週の3月5日(日)、赤坂の畑に年末に植えた玉ねぎの状況を見に行く。2か月以上ほったらかしであったが幸運にも芽が伸びて育っている。畝のなかに蔓延り始めた雑草を引っこ抜いて約1時間で作業を終わる。伊吹山の山腹は白く吹き下ろす風は暖かい最近にしては冷たかった。帰って早めに蕎麦を作り昼食。

即着替えて自転車、恒例となった犬山往復に出かける。中山道各務原から木曽川に出て江南を抜けていく。サイクリングロード(CR)にはランナーや自転車も多い。江南の道路横断で一時停止してスタート切ってから背後に誰かが付いていると感づいていてもそのまま引き続けると、犬山城が見えてきて横を抜いていったので急いで後ろに付いて引いてもらった。平均時速は33kと結構早いがよく見ると女性のようでこのまま引いてもらうのも何となく申し訳ないので再び先頭交代、犬山城手前の三叉路でお別れ。犬山は人が多く明らかに岐阜公園付近より人出があるが何故だろうか?犬山モンキーセンターの裏路を一旦登ってから成田山に登る。遠く名古屋駅の高層ビルが良く見えた。帰路も木曽川CRで戻り笠松を抜けて帰ってくる。
https://strava.app.link/d9RJAp8osyb
54.08km 2:23:52 22.5k/h 37.2k/max 獲得216m

犬山城木曽川

仕事、相変わらずの仕事はトラブル解析続きつつ原因解決に向けて若干の光明見えてくる。7日火曜日、実に数ヶ月ぶりの有休を取り、乗り鉄趣味の延長、以前から乗ってみたかった下呂ー中津川間の路線バスに乗りに行く。青春18きっぷを購入し、9時過ぎにJR岐阜駅から高山本線気動車キハ25系に乗って下呂まで行く。車内は老齢と意外にも若い大学生風の観光客で席が埋まった。卒業前か案の定、下呂温泉も道々に若者が多い。バスの出発まで1時間20分あるので案内所で聞いて外湯に入りに行く。白鷺の湯は人も少なく外から春の日差しが降りそそぐ湯船はゆったり心地良く疲れが溜まった首も肩の凝りをほぐす。ところで、白鷺の湯のトイレには狂歌のような注意書きが貼ってある。同じような「・・漏らすな」文を以前自転車で行った御岳山の峠近くのトイレで見て笑ってしまった記憶がある。

「トラブルも三月となれば体調の崩れはいつもの首から始まる」

「ストレスにかたまる体ほどけゆく下呂のゆぶねに春光(かげ)ゆれて」

日本ライン周辺)

(キハ25気動車

温泉街の飛騨川を渡って下呂駅の前にバス停はある。12:40加子母行の濃飛バスが来る。中津川までは加子母で一度乗り換えがある。車内は数人若い人と老人のみ、暖かい早春の下呂から山に向かって標高を上げていく。加子母の辺りは地場歌舞伎が有名で**座という舞台の建物が見えたりする。やがて標高の700m付近の舞台峠を越える頃には車内は私一人になる。この見晴らしの良い舞台峠は以前に自転車で登って高速でダウンヒルしたことを記憶で辿る。エンジン音を響かせてバスは日差し明るい峠をアッという間に登り通って加子母の集落に下って行く。以前から路線バスで山深い峠を越えるという光景に憧れていて満足感あり。終着、加子母バス停には北恵那バスの中津川行バスが待っていて飛び乗るとすぐに出発した。舞台峠を境に道脇の看板も「七笑」など飛騨川から木曽川水系の特徴に変わる。付知峡から下ると右手に笠置山、正面に雪が残る恵那山が見え始める。私一人だった車内に途中で二人の若者が乗ってきてやがて中津川駅前に到着する。「おふくろ」という五平餅の有名店が駅の近所にあるが火曜定休日で残念。中津川からは中央本線快速で名古屋経由して帰着、17時。天候も良く高原を走る路線バスに乗るという目的は達成。

(北恵那バス)

(奥は恵那山)

本日、一時期話題になった、怒れる作家佐藤愛子氏のエッセイ「90歳なにがめでたい」を借りて読了した。出だしはスマホの使い方を若僧にしたり顔で教えられ何でもスマホで済ます風潮を「テメエが発明したわけでもないくせにエバりやがって」、スマホに頼りすぎて「人間がバカになる」と嘆き自ら老人の姿を自虐的に笑うところは予想した内容。一方、新聞の人生相談の話題が数章続く部分は、大した問題でもなくどうでもよいように感じ退屈になった。最後のほうに「現代の何の不足もない平和な暮らしの中では悩んで考え込む必要もなく、考えない生活からは自立心は生まれず、生まれるのは依存心ということ」など氏の考えが述べられている。佐藤愛子氏の人なりは既読の本や北杜夫氏のエッセイでもある程度既知だったが出版時92歳と書いてありまだまだ元気そうで、怒りを含め喜怒哀楽を筆にしたためる作業こそが生きる源になっていると巻末に書いてありまったくその通りだと思った。